癖なのですが、ついつい「いつでもどこでも」を求めてあちこちに同じ環境を整えようとするんです。
仕事:事務所でも家でも同じように作業できるとよい
でもマシンを持ち歩くのは極力避けたい。
とか言ってるくせに外でも同じようにやれたらいい
などと考え、家、事務所、持ち歩き用のマシンを揃えようと
する
じゃ、家や出先で仕事してるか、してない。家に帰る
ころにはそんな気力は残っていない
遊び:家でも事務所でもギターを弾きたい
とか言って結局どっちでも弾かない
制約なんて取っ払っても取っ払っても、じゃあ自由になんでもやるかというとやらない。むしろ、「今ここでやらないでも良い」理由を作っているようなものだな、とこの本で思い知りました。
相変わらず、明快で面白いです。まだ触りしか読んでませんが。
この方の影響を受けて僕も筋トレの真似事を始めたんです。
基本、朝やります。
が、生活リズムを一定に保つことを全くできないので、朝の時間はよくつぶれるわけです。
なので、朝でなくても、事務所でも筋トレできたらいいな、と思い、
しかし、ジャージとかで出勤しないので、動きやすい服を事務所に置いておこう、と思いました。
で、服を買いにいく途中でフラッと立ち寄った本屋でパシッと目に留まったのがこの本。
最初の1,2ページ読んで、自分が勘違いしていることに気付きました。
ギターの練習と同じく、どこでもやれるように、なんてしても結局どこでもやらなくなるに違いない。
僕は長年、体重が50kgに達しなかった。身長は176センチほどあります。身体も弱く、体質改善みたいなことも随分と調べたりしました。
その中で、あらゆる事象に共通する「ストレスがないと強くならない」という単純な理論が見えてきました。
一時期、断食の研究をしたことがあり、甲田先生という西式療法の大家であられる方が仰っていた、「痩せるのも太るのも理屈は同じ。断食は痩せるためにあるのではなく、適正体重になるためにある。だから痩せすぎの人は断食で太る。」
という理屈に共鳴したんです。
これはこういう理屈です。
人間の歴史というのは古来、「飢え」との戦いだったと。
現代のような飽食の時代は、歴史的に見ても極々最近のことでしかない。
狩猟時代、もしも、獲物が取れなくて空腹で動けなくなっていたら人類はとっくに滅亡したはずだと。
何故、太る人がいるかと言えば、この「飢え」との戦いを制するために本来人間が備えた能力が生きているからだと。
今、目の前にある食料から十分に栄養を取り、この後、獲物が獲れずに頑張らなくてはならないときのために「脂肪」としてエネルギーを貯蓄するシステムが人間にはあるのだそうで。
なので太る人の断食は単に、「貯蓄」に回すほど栄養を摂らなくする意味合いになる。
では何故僕のような痩せすぎの人間が「食べない」ことで太るようになるかというと、飽食の時代に入って、オフになってしまったスイッチを「危機感」を与えてオンにすることが目的なのだそうな。
僕の内臓は、現代にマッチしていて、今入ってきた栄養をそんなに頑張って吸収しなくても「どうせ数時間後には入ってくるんでしょ」ってことを身体が知っていて怠けるのだそう。吸収しない。
食を絶つと身体が焦りだし「これは次いつ来るかわからんからしっかり吸収して蓄えよう」となるのだそうです。
トマトのスパルタ農法というのも同じ理屈です。
トマトは元来アンデスの痩せた土地が原産の植物らしく、おいしく育てようと、肥料をやると、根が怠けだし、ちゃんと栄養を摂らなくなってしまい、おいしく育たなくなるらしいです。
肥料を制限すると、トマトは必死になって根を地中深く伸ばし、頑張って生きようとする結果、おいしい実を作るのだそう。
奇跡のリンゴの木村さんのリンゴも同じ理屈ですよね。
肥料も農薬もやらない。リンゴを自然と対峙させ、強くする。
著作によると、台風で近隣のリンゴが壊滅した中、木村さんのリンゴはヘタが太く、しっかりとしていて木から落ちなかったそう。
木村さんのリンゴは生命力が強く、半分に切って常温で放置しても腐らないまま干からびるそうです。
話がすんげぇ脱線しましたが、「制約」ってのは課したほうが良いんだと、またまたあらためて気づいた今日なのです。
で、トレーニング用の服は買いませんでした。
ちなみに今の体重は54.5kg人生最重量です(笑)
次の目標は60kg、と言いたいところですが、まずは57kgくらいですかね。
「いつでもどこでもやれる」は「だから今ここでやらなくていいよね」につながっちゃうんだな。という教訓でした。#断食#朝の時間#奇跡のリンゴ#制約