TEDです。

植松努さん。驚きました。こんな素晴らしい方を知らなかった自分に。

もっと驚いたことがあります。

このTEDの動画を見て、この方のことを知りたいと思い、動画のタイトルから僕はこの方の名前を「うえむらつとむ」と読み間違えました。漢字がわからなかったので、このままひらがなで検索したんです。

すぐにこの方の情報が出てきました。しかも名前が違う。今の検索機能はそこまで行っている。「あぁ、この人はこれを探しているんだろうな、間違えてるんだろうな。じゃ、この情報を出してやろう。」と。

CPUがこのように考えるわけではないでしょうが、今話題の機械学習ってこういうものを指しているのかな、と思いました。

それは、僕達が普通に使っているIDEとかにも似た匂いの機能が付加されていることでもその普及が感じられます。

eclipseでクラス名を間違えて入力したりすると、正しいクラス名に直す候補が表示されたりします。

誰かがどこかで、すごい機能を開発してくれている恩恵を受けているわけです。

植松さんもプレゼンテーションの中で仰っています。出来ないことを出来るようにしようとする努力が人の役に立つと。それはそんなだいそれたことである必要はない。今出来ないことを少しでも出来るようにすることの積み重ねでしか、人は前に進めない。

自分に「出来るかも」と思わせること、小さな達成感を絶え間なく与え続けること。育成者としてそれが出来るようになることが目標だと、あらためて思いました。

好きなことを一心に追いかけられる人を見ると、多くの人は幸せそうだなとか、憧れを抱いたりとか、感動をもらったりします。

しかし、追いかける本人は実際はかなり辛い思いをします。好きだったことが仕事になって辛さばかりが増してしまい、好きなのかどうかわからなくなってしまったり、成果がまったく見られなくて思い悩んだり。

それでも最後は「好きなことを追いかける」線路にちゃんと戻ります。つまり、才能とは「好きで居続ける能力」を言うのかも知れませんね。

好きなことをやり続けるというのも理想に思えてなかなかに難しいことです。

こうやって考えに考え抜いた先にたどり着く答え。

「バカになる」でした。余計なこと考えない。これしかないですよね。バカはひとつの表現でしかありませんが。

「下手な考え休むに似たり」で、植松さん的に言えば休むどころか殺すことになりかねない。下手な考え、やってもいないことをあれこれ考えたり、分かりもしない将来の心配をしたり。全部下手な考えです。

僕はプログラムの作り方しか教えることができない。他のことはなにも出来ないので、考える余地がない。出来ることを伸ばしていくしかないのです。

植松さんは宇宙を例に説明していました。宇宙の研究なんて誰もが出来ることではない、と人はどこかで刷り込まれると。

プログラミングも似たようなところがあると思いました。特殊な教育を受けた人にしか縁がないと思い込んでいる人がとても多い。

今はブームになりかけているので、世のお母さんたちは迷ったりしている。子供に習わせるべきか。これは何を迷っているかというと損得です。もうひとつ言えば損得+誤解ですね。

そこにどんな夢が描けるかは考えていない。

親の姿勢としては必ずしも間違いとは言い切れませんが、まずもっと親自身が「自分は実は何も知らない」自覚を持つべきです。ゲームで遊ぶこととゲームを作りだすことを混同して考えて心配するような親が、やりたがる子供に機会を与えないとしたら、それこそ無知の涙です。

分からないと思ったらまず自分がやってみたらいい。あるいはITの世界を築いて来た人たちの本でも読んでみたらいい。

そこにどんなドラマが展開されてきたかを知るだけでも違います。

植松さんと同じく僕も読書好きです。僕はプログラミングに興味を持ち始めたときに片っ端から本を読んだ。技術書もさることながら、関係するあらゆる本を読みました。

これが幸いした。僕はプログラマという職業に憧れを持ちました。本からです。憧れは夢に通じます。それが現在の僕を形作ったと思います。

今でも片っ端から目についた書籍は読みますし、知らない言語の特性や使い方がいつも気になります。追いかけきれる量ではないですが。

ビジネスはその前に立ちはだかります。ときには夢を打ち砕きます。そのとき、「バカになりきれるか」が勝負どころじゃないでしょうか。ね。